もっちもち

うふふ

生い立ちの話・リストカットをしていた頃

わたしは兄と姉の三兄弟で育った。後で知ったが、さらに上にも兄がいたらしいが、養子に出したとか父の連れ子だったとか、会ったことはないのでよく知らない。
本当に小さなころは景気も良く、父親はデパートで働き、母親はパートをし、共働きだが仲良く暮らしていた。けれどそのデパートは倒産し、父親は職を失った。幼かったからよくわからなかったけど、大変なことになったということだけはわかった。
貧乏。幼い私でもわかるほどに生活の質は下がった。そもそも三兄弟にしては狭いアパートに住んでいる時点でそうなんだろうとは気づいていた。もともと収入も高くはなかっただろうし、三兄弟だからそれは大変だったろうと今になってはわかる。
私の家には自分の部屋というものがなく、私に与えられているスペースはたった一つの勉強机だった。友達の家に遊びに行くと、みんな自分の部屋があって、たくさんのゲーム機があって羨ましかった。大きなマンションや一軒家に住んでる子もいた。なんでだろうと思ったけど、口に出したら怖くて、何も言わなかった。
私には長女の姉と次男の兄がいた。長女の姉は気が強くて頭も良い。だが、後で聞いた話ではあるが、母親は姉に対しかなりのスパルタだったらしい。それが原因でなにか恐ろしい事件があったらしいのだが、それに母には関してはいくら聞いても話してくれない。また、これは知り合いから聞いた話だったが、小学校の時姉は友達同士で「セックスごっこ」というのをしていたそうだ。そして事実、私の小学校の親友の弟と、別の友達の妹を母親の下着をつけさせて、小学1年や2年そこらの私たちの前でセックスごっこをさせたのだ。今思うと、恐ろしいことだし、姉がなぜそうだったのかはわからないが、彼女も家庭のイザコザで苦しんでいたのかもしれないと今になってわかる。小学一年生の頃、私はクラスの担任の男の先生に父親のようによく懐いていた。その先生にプールの授業のあとの放課後、ほかに誰もいない教室で「靴下がない」と言って一緒に探してもらおうとしたら、服の中にあるかもしれないと言われ、服を脱がされ全身を弄られたことがあった。当時はどういうことかわからなかったが、「このことは内緒だよ」と先生に言われたことを強く思い出すし、年頃になって思いさして、意味がわかるようになって、ものすごく気持ち悪くなった。父親の浮気なども重なり、自分も恋人を作るようになった今でもどこか奥底で異性を軽蔑し、不信感を抱いてしまう。
姉は私が末っ子で、厳しくしつけられず甘やかされているのが気にくわないようで、しばし私を殴ったりつねったり顔に引っ掻き傷をつけられたりしていた。抵抗しても負けてしまうとわかってるからできない。言い返しても姉の方が高圧的でヒステリックに逆上すゆので逆らわえないから、私はずっとされるがままだった。姉が勉強のために部屋にこもったら、私は勉強机に座ったまま音を出すことを許されず、本を読んだり古いゲームボーイを音を消してやったり、絵を描いたりしてすごした。部屋といってもふすま一枚隔てただけだったから、少しでも音を立てたら「うるさいんだよ!!集中できんやろが!」と怒鳴られ叩かれる。母親は姉と兄は勉強があるから仕方ないでしょ、としか言ってくれない。
父親はその頃、ニューウェイズというところで働けることになって、家族全員喜んだ。健康食品やシャンプーなどの商品を扱い、動物実験反対を謳い文句にしているというかんじだったのは覚えている。だが、これがさらなる波乱となった。そのことに関してはあまり覚えてないが、もちろんそれはネズミ講だったのだ。このころから、母親と父親が子供たちが寝た後になにか深刻な話をしていたり、喧嘩か何かで父親が酒をたくさん飲んで怒り、家を出て車の中で寝ようとしたのを、私が泣きながら家に戻ってと懇願したことがあったり、なんとなくどんどん家の中がおかしくなっていってると感じた。だが、幼い私は優しい父親が好きで、いつも父親と遊んでいた。母と姉、そして私と父親でなんとなく対立関係のようになっていた。
家が貧乏だから、私はずっと自分の服が買ってもらえず、ずっとお下がりを着ていた。クリスマスや誕生日も、高いものなんかねだらなかった。親戚周りもそんなにしないので、少ないお年玉でゲームカセットを買ったりしていた。周りの子はお年玉で十万ももらったりしていて、いいなぁ、と思ったけど、貧乏でもそれでもなんとか私たちを食べさせ、学校に行かせ、パートや夜勤をしている母の姿を見ればおねだりなんかできるはずなかった。
小学校高学年になってくると、だんだんカーストができてくる。家がお金持ちで、オシャレしてくる子たちだって出てくる。私と、友達2人は学校で飼育委員をしていた。三人とも動物が好きだったから、いつも飼育小屋に行っていた。貧乏でお下がりの服を着ている子、転校生、鳥が好きなちょっと変わった子。三人とも、もちろんイジメのターゲットになった。ちょうど鳥インフルエンザがあったときで、「近づいたら鳥インフルエンザがうつる」「くさい」「きもい」など言われた。席替えのときも私たちが近くの席になったら「最悪」「ありえんのやけど」と言われた。極め付けは男子生徒が私の給食のスープにスプーンを入れようとして、他の人が「何してんの?」って言ったら「罰ゲームやけん」と言ったことだった。担任も注意するくらいで、なんの意味もない。教室には居場所がなかった。だから休み時間も放課後も飼育小屋に行っていた。
家もおかしい。学校もおかしい。だんだんと私は気持ちがおかしくなっていっていた。
リストカットに興味を持ち、試してみたのはこの頃だったと思う。
私の中学はエスカレーター式で、3つの小学校から1つの中学に上がるマンモス校だった。中学ではスクールカースト下層だった。見学せずに卓球部に入ったら、そこは学年でもカースト上位の集団な上に小学校の頃私をバカにしていた子までいた。そうしてバカにされたりからかわれたり、嫌がらせを受けながら半年で部活を辞めた。友達はいたけどバラバラだったりして、教室では本を読んで過ごすことが多かった。その頃かなりのあがり症で、授業で当てられたり生徒から突然話かけられるとすぐ赤くなったり声が出なかったりして、それもからかいの的になった。
中学は10クラスあり、それぞれカーストやいじめなどの問題があったらしい。登校拒否になった子もいた。私は登校拒否だけはなぜだかできなかった。親に私が学校でこんな目にあってると言ったらどうなるんだろうと思い、怖くて黙っていた。黙って耐え続けた。親には何も問題ないと伝えていた。思えば、私は何を守りたかったんだろうか。私が耐えていれば何も起きなくて済むと、自分が苦しむだけで済むと思ってたのかもしれない。
中学である女の子と友達になった。親友だった。その子の家によく遊びに行き、泊まりもしていた。姉妹のようだった。その子が入っていた演劇部に2年から入り、その中学校では演劇部=オタクでキモいという扱いだったので、さらにバカにされたけど、先輩も後輩も仲が良く、居心地が良かった。一緒に塾に通い、一緒の高校に入った。だけど、それがダメだった。
私は中学3年の頃から、「空気を読む」術を手に入れはじめた。「いじられキャラ」「天然キャラ」「面白キャラ」といった様々な仮面を作り、そして素の自分を仮面に隠し、受け流すことを覚えはじめた。カーストという概念から外れる術を掴みはじめた。学校という環境を耐えやすくなるようにと。

高校に上り、親友Aとは同じクラスになった。もちろん大喜びだった。私は高校では明るく振る舞っていた。友達もそこそこできたし、公立高校だったのでバカにしたりイジメをする人種は少なかった。けれど、もともと暗いタイプの人間が常に明るく振舞っていると疲れる。リストカットの頻度が少しずつ増えていった。そのころは浅いためらい傷程度だったから、なんのことはないと思っていた。
無理して明るく振る舞ったところで、結局本当に明るい人間には見抜かれてしまう。というより、見抜かれているんじゃないかという疑心暗鬼が、余計に私を苦しませていた。

あるとき、親友と好きな人が被ってしまった。そこから全ておかしくなった。結果として、私は彼女にひどいことをしてしまった。今になれば大したこともない理由で、彼女が先に告白したというだけで、振られているし、特に彼女が悪いことをしたわけではない。なのに私は傷ついたから、という理由で、彼女の目の前でリストカットを行い、彼女にその手当をさせた。今、書いてるだけでも自分が憎く思える。彼女はきっと心に傷を受けただろう。そう思うと当時の自分を殺したくなる。私は彼女にボーダー的な依存をしていたのだろうと思う。ひどいことも色々いっていたと思う。わがままばかり言っていた。家庭内でわがままを言えない反動のようだった。その後もなぜかクラスが変わるまで一緒に行動していた。私は彼女の心の悲鳴を聞いてあげるべきだった。身を引くべきだった。私は執着心が強く、その子のブログやホームページはチェックしていたし、教えてもらってないブログでも探し当てるのが得意だった。クラスが変わり、新しい友達ができた。わたしは美術部に入っており、その友達もいたからその子とは疎遠になるはずだったが、兼部で生徒会に入ることになり、その親友Aもその部活にいた。私はまた仲良くできると思っていたが、彼女は違った。表面上は仲が良かった。だが、あるきっかけで彼女の裏ブログを見つけてしまい、そこに大量の私への悪口が書いてあるのを見つけた。彼女が私にされたことを考えれば、それは仕方ないことだと今ではわかるが、それから私はどんどん精神的におかしくなっていった。他人に与えた苦しみと自分の苦しみが心の中に巣喰い、自分を罰するようにひどくリストカットを行うようになった。遅刻や早退、保健室にいることも多かった。授業中周りの私語がノイズに聞こえて耐えきれずに授業中保健室に行くといい教室を出て、その道中のトイレの個室の中で手首を切ることもあった。怒りと憎しみと悲しみと虚無感が毎日自分の中を這いずり回るようで、ああ、家に帰ればリストカットできるなぁ、と思いながらバスに乗って帰っていた。私の学年はリストカットをしている生徒が多かった。友達にもリストカットをしている人がいたり、保健室で出会って友達になることもあった。大抵、みな明るく優しいが、片親や離婚など、家庭などで問題がある子ばかりだった。しかし、人がリストカットをしていると、なぜか競い合うようにリストカットをしてしまうような部分もあった。私のリストカットはどんどんひどくなる一方だった。左腕全体、肘の上、膝、太もも、足首に至るまで全て切った。もともとかさぶたをはがしたり、デキモノを芯が出るまでえぐり出したり、痛いことや血が出ることに対して抵抗がなかった。自分の体を傷つけることは自分の暴力的な感情、怒りの感情、悲しみの感情を痛みで表現し、傷と血で可視化する。家族や他者への敵意を自分で発散することもできるし、自分を自分で罰することもできる、一番ちょうどいい行為という感覚で行っていた。もちろんそこまでエスカレートすれば、家族にも気づかれた。傷跡がひどくて夏場は暑いのに夏服の上にカーディガンを着ていたし体育でも冬服を着なければならなかった。そうしていたら近しい友達だけではなく、よく知らない先生や生徒にも気づかれる。10年前にあたる当時はリストカットなどは当然認知に乏しいものだったので、奇異な目に晒されることも多々あった。でもその時は気づかれてもいいと思ったし、むしろ気づいて欲しかったんだと思う。製図用のカッターが一番切れ味がいいと気づいてからはそれを机に隠し、勉強しているフリをして体を切りつけていた。毎日そうしていたらそれが当たり前になってしまって、強い痛みが欲しくなって傷の深さも数も増えるばかりだった。家族にもなんども問い詰められたが、その時は家族に対して意見や自分の思いを伝えることができなくなっていた。今でもそうだが、私は感情が高ぶると頭の中で一気に思考が押し寄せてきて、言葉が出せなくなり、黙るか、適当に嘘をついてその場を終わらせてしまう。私は自傷行為をする人の多くは感情を形にすることが何らかの形で上手に出来ないのだろうと思う。